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<< 作詞におけるグルーヴ感 >>


2002/4/10(Wed)

 グルーヴのことがここでのマイブームのようになってきた。今日は作詞におけるグルーヴ感について。
 詞の作品を添削していて、作詞にこそグルーヴ感が要求されると最近とみに感じるようになった。曲先の作り方が主流の昨今では、作詞家はテーマもさることながら作曲家の意図した「ノリ」をつかむことも忘れてはならない。これがつかめていないとけっきょく音数合わせに終始してしまい、曲になじまない。
 作詞家にはまず文学性が要求されると思われがちだがそれは大いなる誤解だ。作詞家こそ音楽をよくわかった人であってほしい。
小谷隆


<< 1%の転換がもたらす変化 >>


2002/4/11(Thu)

 約600万年前、人類とチンパンジーには同じ祖先がいた。突然変異で袂を分かったが、それらの遺伝子の差はたった1%強しかないという。なのにかたや胸中に宇宙を感じながらミサイルを飛ばし合う存在となり、かたやアフリカの森でひっそりと暮らすエテ公となった。
 話は飛ぶが、CDの売上げは前年度2割減。あらゆる産業で大胆なリストラが行われる中、「水物」の名のもとに特別扱いされて変革の息吹さえ感じられないこの業界に求められるのは、たった1%の発想の転換なのかもしれない。ヒトになるかサルになるか。今が正念場である。
小谷隆


<< やがて聳え立つ素材のために >>


2002/4/12(Fri)

 教育における放任というのはある程度の基礎を固めた者に対してとるべき態度であり、未熟な価値観の持主には教師が責任ある価値観をもって「教える」ことが肝要だ。
 音楽においてもしかり。個性の尊重という美名のもと、基礎の脆弱なアーティストの未熟な主張を何でも受け入れていたのでは伸びるものも伸びない。基礎も固めない土壌では建てられる上物の高さも限られる。やがて雲のかかるほどの高さにそびえたつビルになる人を、ヨイショばかりで目先の小さな成功に浮かれさせてはいけない。時には鬼にもなるのが愛情というものだ。
小谷隆


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