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2004/12/23(Thu) - 修羅か地獄か
 いつもなら少し座席にゆとりさえあるはずの終電一本前が時節柄か足の置き場にも困るほどの混雑。しかも乗り継ぎのある駅ごとに待ち合わせをするからなかなか進まない。そんな地獄列車で本来20分の区間を小一時間。おまけに下手くそな運転士は「電車でGO!」なら大減点になりそうな急ブレーキを何度もかけ、足を踏まれること3回、窓に顔を叩きつけられること2回、さらに降りるとき突き飛ばされて腰を捻りこれがトドメ。やれやれ。
 ホームに吐き出された若い連中が喧嘩を始める。
 やめとけ。
 辛いのはお前たちだけじゃないんだ。

小谷隆
2004/12/22(Wed) - 誰のために?
 忘年会シーズン。幸い今年は予防線を張っておいたためお誘いも少なく、「お開き間際の駆けつけ一杯で会費1万円」などといった哀しいおつきあいもない。
 そもそも忘年会自体が減っているのだという。若い人々はことさらに仕事がらみの宴席を嫌うが、若い人に限らず忘年会の類を有難く思う人は実のところあまりいない。惰性的に習慣として残っているだけだということにいち早く気づいた集団ではどんどんやめていると聞く。結構なことだ。無駄な金と時間を使わずに済む。
 それでもなお消えない忘年会。おいおい、誰の希望なんだ?

小谷隆
2004/2/15(Sun) - サイト移行
"1月19日以降はこちらにあります。"

小谷隆
2004/1/18(Sun) - 雪にフラれて童心を思う
 東京地方は昨夜2〜3センチの積雪があるとの予報だったが、深夜にみぞれがちらついただけで、目覚めたら何ともうららかな日で拍子抜けしてしまった。ふと、通勤の足が止められずに済んだという安堵感と、なぜか少しだけ残念な気持ちが交錯した。雪と縁のない土地に生まれ育ってきた自分にとって、白銀の世界には今もなおワクワクするのだ。
 交通に支障が出る憂慮とは裏腹の、言い知れぬ胸騒ぎ。おとなの理性と僅かな童心が葛藤する。こっ恥ずかしくもあるが、こんな気持ちでいられるうちはまだまだ僕も老け込みはしないだろう。

小谷隆
2004/1/17(Sat) - 不惑の手習い
 不惑の歳になりなんとする頃だというのに先月から本格的にパソコンのプログラミングの勉強を再開した。半月ぐらいで基礎編を仕上げ、いま次の段階に差しかかっている。
 学生時代に8ビットのPCでBASICに触れていたので取っかかりは悪くないが、スタンド・アローンのPC上で自己完結していた時代とは違い、ネットワークを介して相手のPCに適切な値を返すことは想像以上に難しい。
 外注にかかる費用を少しでもケチろうという発想から始めたことだが、前途はかなり多難だ。しかしこういう緊張感も脳の若さを保つためには欠かせない。


小谷隆
2004/1/16(Fri) - 事情はわかるが
 かつては空車のタクシーを見つけて乗り込めば行き先を告げるだけで大抵の場所へは指示なしで行けたものだが、今どきは個人タクシーは別として会社タクシーを拾うのは一つの賭けですらある。車を捕まえれば裏道まで知り尽くした熟練のドライバーが目的地まで滞りなく連れていってくれるなどというのは過去の幻想だ。
 乗ったとたんに「新人なので道はわかりません」と開き直り宣言をする運転手がいるのには参った。リストラ転職者なのか。ご時勢だ。事情はわかる。しかしあまりにプロ意識のなさすぎるのもいかがなものか。

小谷隆
2004/1/15(Thu) - 「ユニークな人」を見極めよ
 どこの世界にも「ユニークな人」と呼ばれる人種がいる。奇抜な言動で周囲を驚かせて時には一目置かせるようなこともある。しかしそういう人々の本質はきちんと見極めた方がいい。単なる出鱈目なのか本当に独創的なのか。斬新なアイデアであったとしてもそれは受売りでなくその人自身から出てきたものなのか。
 少なくとも僕の周囲にいる「ユニークな人」たちの大半は単なる天邪鬼か、便利なネタ元を隠し持つ受売り屋に過ぎない。まずもってそういうエセ者は反対意見にすぐキレて馬脚をあらわす。自分の言動に自信がないからだ。

小谷隆
2004/1/14(Wed) - 上を向いて歩こう
 人は放っておくと自分の足元ばかり眺めがちだ。石に躓くまいとビクビク歩みを進めていないか。誰かの落とした財布でもあれば見逃すまいと無意識のうちに路面を眺めている卑しい自分はいないか。
「上を向いて歩こう」は溢れる涙がこぼれないようにするためだが、上を向くまでもないにしろ意識して胸を張って歩いてみたらどうだろうか。まず風景が微妙に変わるのだが、これにはびっくりするほどの気分転換効果がある。医学的にみても背骨が伸びる姿勢によって体が開放的になり、不思議と気持ちが外向きになるのだそうだ。


小谷隆
2004/1/13(Tue) - 続・時代の断面を描くことについて
 現代の事象ばかりどれだけ描き連ねてみても今という時代を描いたとは言い難い。現代という時代を描くのであれば時代によって変わらない本質を突き止め、それが時代によってどう人の眼に映ってきたかという歴史認識が要る。
 たとえばここに白い紙がある。ある場所では青く見える。それはその場の光が青いからであって、紙が青くなったからではない。またある場所では赤く見える。それは光が赤いからであって紙が赤くなったからではない。その「青」と「赤」との差が時代の断面である。
 何よりまずは紙の白さを知らなければならない。


小谷隆
2004/1/12(Mon) - 時代の断面を描くことについて
 音楽にしろ文学にしろ、表層的な表現が目新しいにすぎないのにあたかもそれが新しい概念であるかのように芸術家が錯覚を始めると始末が悪い。人の感情の多くは時代に左右されることはない。文化やそれに含まれる規範によって表現を変えているだけで、たとえば恋愛感情にしてもその本質は殆ど何も変わっていないのである。
 しかし普遍的なものも時代背景によって見え方は違う。ならばその違いを比べてみたら今という時代がわかるだろう。「時代の断面を描く」とはそういうことであり、それを表現できる人がその時代の芸術をリードできる。


小谷隆

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